はじめに
ェ、ルクラの計画が始まったのが、2,017年の春だった。マカルーBCに「行ってみよう」から始まり、少しづつ欲が出て、マカルー山域と、エベレスト地域を結び付ける計画となっていった。
幾つかのエージェントに問い合わせ、見積依頼をお願いしたが、反応は様々だった。最初に金額の提示はあったものの、その後は連絡不通となったり、難し
いコースだと断られたり、全く返事の無い所もあった。10月頃より、A社に絞って交渉を続けたが、最終的に、倍くらいの見積もりとなり、結果として交渉
打ち切り、計画断念か?という状況となった。
振出しに戻り、エージェントを吟味したところ、何とか年を越すこともなく、HSA社と話がまとまり、計画も具体的に進み始めた。航空券の予約、山岳保険加入、ビザ、装備調達、3か月はアッという間に過ぎ去り、何とか4月17日成田空港からカトマンズに向けて出発となった。
ツムリンタール~ヌム
4月20日
ガイドのパサンと合流して、トリブバン空港に向かう。マレーシア航空機のトラブルによって、1時間過ぎてもチェックインできない。やっとイエティエアーにてツムリンタールに向け出発となった。機内より雲の間からヒマラヤの峰が見え始める。いよいよ始まる思いが強くなる。エベレスト南西壁が黒々とひときわ目を引いた。その手前の三角ののピークはローツエ。機はアッという間にツムリンタールに着陸した。空港ゲート前では、コックやポーターが迎えてくれた。
4月21日
ポーターに先行して、三輪タクシーでカンドバリに向かう。昼食をはさみ、三輪タクシーを乗り継いで、マネバンジャンという街まで先行し、ここでポーターと合流となる。
今日は部落の上部にある、仏教寺院の裏にテントを張ることになった。明日の車の手配などを済ませた後、このお寺に参拝した。パサンは熱心な仏教徒で、五体投地を繰り返していた.。
4月22日
車2台に荷物満載でスタート。ぐんぐん高度を稼ぐと、今までとは違った悪路の始まりだ。途中ドライバーの朝食休憩をはさんで、ボーテバスを通過すると、ビューポイントがあり、エベレスト、ローツェをはるか遠くに見る事が出来た。進行方向右手なので、方向感覚が狂ってしまう。おそらくヘアーピンカーブの折り返し地点だったと思われる。左がエベレスト、右の三角のピークがローツェだ。
途中ティータイムをはさみ、ドジュ・ラを越してヘアーピンカーブを下った先がヌムだった。
アルン川をはさんだ対岸の家並みがセドワだ。同高度に見える。ロッジの前庭にテントを張る。夕方より土砂降りの雨。毎日おなじ様な天気だと言っていた。
ヌム~シプトン・ラ
4月23日
いよいよ自分の足だけが頼りのトレッキングのスタートだ。今日は、目の前のセドワまでだが、途中にアルン川が流れている。750m降っての登り返しの始まりである。
出だしからいきなりの急下降。途中の棚田では、牛による代掻きが行われている。ポーターたちと前後しながらひたすら降っていくと、川の音が大きく聞こえてくる。眼下にアルンの吊り橋が見えて来た。その昔マカルーに向かった登山隊は、竹を編んで作られた吊り橋を補強しながら渡って行ったと言われている。現在はワイヤー製の2代目の立派な橋だが、マカルーに向かっている実感がジワリとわいてくる。
下降した分だけ登り返し、セドワに到着する。到着と同時に激しい雨が降り出す。今日はロッジ泊り。
4月24日
今日はタシガオンまで標高差600mの登りだ。セドワを出発して斜面を登り、尾根に飛び出したところがチェクシダラという所。ここでランチタイム、見晴らしがよい所だ。フランスNPOの援助でできた学校がある。昼食が出来るまで時間があるので、地図を広げると大勢の村の人が集まってくる。ドバテの場所を教えてもらったり、地図の間違いなどを指摘してもらえた。
午後は尾根に沿っての登りが続き、集落から次の村へとつながり、それぞれの入り口にマニ塚がある。チベット仏教では、マニ塚は右回りに通る決まりだ。そのわけは、人間の右肩に白い良い神様が宿り、左肩の黒い悪神の誘惑に負けないようにしている。その白い神様をマニ塚に近づける事によって、育てているそうである。パサンとそんな話をしながら歩いていると、いつの間にかタシガオンに到着した。一番上の広い芝生の庭にテントを張らせてもらった。夕方より雨、一時かなり強かった。
4月25日
ここタシガオンは通年人が暮らす最後の村となる。食料、ケロシンを買い足し、一人ポーターを追加する。登り始めてすぐに大勢のポーターと、10人位のパーティが降りて来た。一登りした一軒家でヤギのミルクを飲む。濃厚な味わいに感動。2700mの高度になるとシャクナゲが咲いていた。尾根を登り切った見晴らしの良い所がダーラカルカで、ゴリーホテルがありランチタイムとする。ホテルと云っても、板の間に炉が切ってあるだけだ。若い母親と、9か月の子がいた。元気な子だが、子供を育てていくには大変な環境である。丈夫に育つよう願わずにはいられない。
整備された良い道だが、登りが続く。ヤクや、ヤギの集団が追い越していく。これから季節を追って4500m位まで登っていく所だ。今にも雨が降りそうな空模様の中、コングマに到着する。一番手前のロッジに荷物を下ろす。まわりには残雪も見られるようになってきた。
4月26日
朝起きた時は、青空も見えていたが、出発の時には濃いガスが降りてきて、視界もよくない。体調がよくないポーターを一人入れ替える。
今日はシプトン・ラを越えるので良い天気を期待したのだが、全く望めそうにない。コングマ・ラまでは登り一本、道も狭くなってくる。タルチョーはためく峠で森林限界を迎える。この先は時折風雨が強まり、4000mを越えて息苦しさも増してくる。シャノポカリダラ(小さな池の山)を越しひたすら登り続けると、タルチョーが風にあおられ、マニ塚があるシプトン・ラに到着する。天気が良ければ最高の眺めの場所だが、今は10m先も見る事が出来ない。峠の先にバッティがあり、ほっと一息つく事が出来た。
弁当を広げていると、ポーターが二人空身でやって来て、コックのザッポラの体調が良くないと連絡してきた。一瞬驚きだが、よく話を聞いてみると元々の持病が悪くなったとの事。皆で協力して、ゆっくり来るよう指示する。
相変わらずの天候の中、尾根を一つ乗っ越すとツノポカリで、二つの池があった。この先の峠が、ケケ・ラと思われる。小雪の降る中タルチョーだけが寂しげに揺れていた。もう一度尾根を越えると、道は左の斜面を下るようについている。トレッキングマップでは尾根通しのはずだ。帰りの時確認したところ、下り始めの所にケルンがあり、ドバトという所で、分岐点という意味だと教えてっもらった。尾根にもかすかな踏み跡があり、ルートが変更となったようである。シャクナゲが見え始め、ドバテ到着。しばらくしてコック、ポーターも到着し一安心である。長かった一日だった。
ドバテ~マカルーBC
4月27日(晴、夕方雨)
7時10分ドバトを出発。すぐに樹林帯の下りとなる。谷沿いの、ぬかるんだ急降下で、足元が気になる。ヤクの集団が下りて来たので、安全な所に一時避難する。足元不安定なこのような所で、あの巨体をぶつけられたらたまらない。目の前を、十数頭のヤクが通過していく様は、迫力がある。その後ろから、ヤギ達もやってきた。こちらはかわいいものである。ひたすら下降する事1時間半。やっとバルンコーラが見えてきた。下りきったところは、タルチョーがはためいている。ポーターもこの悪路を何とか下り切ったようである。
このバルンコーラを上流に遡ればマカルーのBCが待っている。しばらくは、右岸を緩やかに登っていく。対岸にもトレールが見える。アルン川に沿ったルンバスンバパストレックに続いている道だ。ルンバスンバパスを越えると、カンチェンジュンガにつながっている。いつかは越えてみたいルートである。
11時ビヤマタンと云うところのバッティでランチタイム。イギリス人三人が降りて来た。12時40分出発。少し行くと新しい橋で左岸に渡る。5年前にバルン川が氾濫し、道が寸断され、新しいルートになった。その時ヤングリカルカも左岸に移設された。おかげで歩く距離も多少ではあるが、短くなった。右岸には寸断された旧道が残っている。2時にヤングリカルカに到着する頃には、おきまりの雨が降り出してきた。
4月28日(晴のち雪)
いつも朝は良く晴れている。待望の山もよく見える。左前方のひときわ目立つ山が、P-7とP-6だ。天気が持つ事を期待してソーラーパネルを広げて行く事にした。今日は、ラングマレというところまでなので、楽な行程になりそうだ。
少し離れたゴンパの脇を通り、目の前のガレた斜面を越えて行く。サダサというところに、9時30分着。少し早いが、のんびりとしてランチとなる。
ガラガラの河原歩きとなる。右側斜面から岩雪崩が起きて、ヤクカルカはつぶされ今はない。二本の枝沢を横断し、目の前に立ちふさがる尾根を巻くころには横殴りの雪が降り始めた。4000mを越えてくると、さすがに息切れが激しい。やっとの思いで尾根を越すと、小さな小屋が見えてきた。壊れそうな小屋を通り過ぎ、さらに一登りで、ラングマレに到着した。雪の降る中、ポーターも到着し、お茶を飲んでストーブのそばで暖を取って、やっと落ち着いた気持ちになれた。ふと気が付くと、ポーターの人数が足りない。ガイドに聞いたところ、タシガオンとコングマのポーター二人が、BCまで荷揚げして、もうすぐ戻ってくる頃との事。やがて雪の降る中二人のポーターが戻ってきた。二日行程を往復したことになる。さらに今日はヤングリカルカまで下降し、明日には家に帰る予定だという。ボクシス(チップ)をはずみ、二人の無事を祈って別れた。
毎日の天気は、朝晴れていても、昼頃より必ず雨か雪となる。ベースキャンプから先の行動が、心配になってくる。
4月29日(晴、曇)
P-7が朝日に輝いて一日が始まる。今日はいよいよマカルーBC入りの日だ。地図ではかなり距離がありそうに思えたが、ガイドは4~5時間位だと言っている。6時40分に出発。バルン川の河原の道を緩やかに登っていく。振り返ると、早くも下からガスがわき始めてきた。ヤングリカルカ付近は、雲の下となっている事だろう。
今日は、ランタン谷のキャンチェンゴンパの落慶法要の日だ。思わず手を合わせた。地震の時、ランタン部落はリルン氷河の雪崩で壊滅。キャンチェンゴンパもつぶれたが、日本のランタンプラン等の援助で、やっと再建された。内部の壁画も立派な物だという事だ。
9時10分大岩の下で休んでいると、前方の雲が動き、雲の間に急峻な岩稜が、一直線に伸びているのがかすかに見えた。思わず“West Ridge. MAKALU”と叫んでいた。ガイドは、静かに“Yes”と答え、左奥に見えるピークがバルンツェと教えてくれた。一瞬で雲に隠れてしまったが、しばらくすると、西稜が全貌を表し、その先にマカルー山頂も尖った姿を見せてくれた。感動に身体が震えた瞬間だった。
いくつかのモレーンを越えて行く。河原が広がった先の右岸にいくつかの建物が見えてくる。木橋を渡ると念願のマカルーBCである。標高4870mSpO2(血中酸素濃度)77%、少し頭痛を感じるが、問題はないようだ。
4月30日(朝晴、のち曇、雪)
今日は休養日だが、ガイドと二人でマカルー南東稜に続く尾根のピークに高度順化で登ることにする。朝、起床時にはマカルー山頂が朝日に輝いていた。しかし、6時15分行動開始の頃から雲が出始め、最初の急斜面を登った頃には、バルン氷河の上部は、視界不良となってしまった。それでも少しの間だったが、エベレストとローツエを雲の間に望む事が出来た。
BCははるか下になり、まともな道ではないので、急斜面をひたすら直登するのはかなり苦しい。1時間30分で5300mピークまで登る事が出来た。視界はほとんど無くなり、風も出てきたので、かなり寒く感じる。早々に下山しBCに戻った。
BCでも雪が降り始め、登山チームもC-2から天候不良で降りて来た。我々もこの先の行動を、検討しなければならない状況のようだ。オランダ人、フランス人、インド人とBC入りしてきたが、皆この天候には戸惑っている様子である。昼食後ガイドと相談するが、楽観的な見方は出来ない。シェルパニコルを越えてチュクンまで、4日かかる。連日昼頃から天気は崩れるパターンなので、降雪量が多くなると、シェルパニコル、アンプラプツァコル間で閉じ込められる事にもなりかねない。どう考えても天候が急によくなるとは思えないので、今回はここまでとし、明日から、下山を開始する事と決定する。
5月1日(晴、一時雪)
起床時にはガスに包まれていたBCだったが、朝食を取り、いざ出発という頃には素晴らしい青空に、マカルーがひときわそびえ立っていた。後ろ髪を引かれる思いだったが、悪天候には勝てない。一歩一歩足を踏み出すごとに、マカルーは遠ざかっていく。何度も振り返って、シャッターを切る。何度目か振り返った時、マカルーははるか小さくなり、降り始めた雪にかすみ、やがてガスの中にその姿を包まれてしまった。